小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と一緒に4人のグループで山奥に潜伏。 1945年8月15日 終戦。 その2か月後の10月中旬に小野田らは投降勧告のビラを見る。 2014 All Rights Reserved. 2014/01/21 小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年3月19日 - 2014年1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。, 情報将校として太平洋戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年を経て、フィリピン・ルバング島から日本へ帰還した。, 大正11年(1922年)、和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)にて父・種次郎(県議会議員)、母・タマエ(教師)の間に小野田家の四男として生まれる。, 旧制海南中学校時代は剣道選手として活躍。中学校卒業後は民間の貿易会社(田島洋行)に就職し、中華民国の漢口支店勤務となり漢語を習得。, なお、長兄・敏郎は東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校(終戦時最終階級陸軍軍医中佐)、次兄・格郎は東京帝国大学、陸軍経理学校卒の経理将校(最終階級陸軍主計大尉)で、弟・滋郎はのちに陸軍士官学校に入校し航空部隊関係の兵科将校(最終階級陸軍少尉)となっている。, 上海の商事会社で働いていた1942年12月、満20歳のため徴兵検査(徴募)を受け本籍のある和歌山歩兵第61連隊(当時同連隊は戦地に動員中のため、その留守部隊)に現役兵たる陸軍二等兵として入営。同時に留守部隊をもとに編成された歩兵第218連隊に転属、同連隊にて在営中に甲種幹部候補生(予備役将校を養成)を志願しこれに合格、1944年1月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校する。, 卒業後、漢語や英語が堪能だった事から選抜され、同年9月に陸軍中野学校二俣分校入校。主に遊撃戦の教育を受け、退校命令を受領[注 1]。その後、見習士官(陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官[要出典]。, 同年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣。当地では第14方面軍隷下の第8師団参謀部付(配属)となっており、その師団長横山静雄陸軍中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と日本軍の戦陣訓を全否定する訓示を受けている[2]。, 派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった。なお派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ、短刀を渡された(この短刀は日本帰国後、実家に帰った際に母親に返している)[3]。, 同月31日、フィリピンのルバング島に着任。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍の一部の隊には「引き上げ命令」が出ていたため戦意が低いことと、小野田には指揮権がないため相手にされず、1945年2月28日のアメリカ軍約1個大隊上陸後、日本陸軍の各隊は、アメリカ海軍艦艇の艦砲射撃の大火力に撃破され、小野田はルバング島の山間部に逃げ込んだ[要出典]。, 小野田は、友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共に遊撃戦を展開した。ルバング島は、フィリピンの首都であるマニラに位置するマニラ湾の出入口にあり、この付近からマニラを母港とする連合国軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった[要出典]。, 1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかったため、一等兵赤津勇一(49年9月逃亡50年6月投降)、伍長島田庄一(54年5月7日没)、上等兵小塚金七(72年10月19日没[4])と共に作戦を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。日本では1945年9月に戦死公報を出されたが、1950年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する[要出典]。, フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡政権」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した[要出典]。, 使用した武器は99式短小銃、38式歩兵銃、軍刀等であり、その他放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。29年間継続した作戦行為によって、フィリピン兵士、警察官、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷したとされる。ただし、アメリカ軍司令官や兵士の殺傷に関して、アメリカ側にはそのような出来事は記録されておらず、実際に殺傷したのは武器を持たない現地住民が大半であった[5][要ページ番号]。このことは後に日本とフィリピン政府との間で補償問題へと発展した[6]。 横井庄一(よこい しょういち、1915年 3月31日 - 1997年 9月22日)は、日本の陸軍 軍人、評論家。 最終階級は陸軍軍曹、栄典は勲七等 青色桐葉章。. でも買えます, このエントリのトラックバックURL: http://gabasaku.asablo.jp/blog/2016/03/18/8052997/tb, 左から、帰国直後最初の手記本(講談社、1974年)、最初の手記のゴーストライター・津田信氏の暴露本(図書出版社、1977年)、最初の手記本を再刊(日本図書センター、1999年), 4度目の「脱走」でついに連れ戻せなかった後に、小野田さんが残った二人の前で「自分の手で赤津を処刑する」と宣言する場面はそのまま掲載されている, 欧州諸国はアジア諸国の100倍~1000倍COVID-19による死者が出ているという現実, 1945年2月28日 米軍がルバング島に上陸。装備もまともになかった日本軍はあっという間に壊滅状態で、一部兵士が山の中に逃げ込んで潜伏。生き残った数十名が投降。小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と一緒に4人のグループで山奥に潜伏。, 1945年8月15日 終戦。その2か月後の10月中旬に小野田らは投降勧告のビラを見る。, 1945年12月 二度目の勧告ビラを確認。山下奉文将軍名による降伏命令と参謀長指示。小野田らはこれも敵の謀略と断定して無視。, 1946年2月 日本語による拡声器での投降呼びかけに、潜伏していた他の兵士二人が投降。この二人の協力で同年3月下旬まで計41名の日本兵が森を出た。, 1952年1月 日比賠償交渉が始まり、日本政府団に随行した新聞記者団が初めてフィリピンに入国を許可される。同年2月、元陸軍中佐がフィリピン空軍の飛行機に乗って島上空を旋回し、拡声器で呼びかけ。小野田、島田、小塚の家族から託された手紙や家族の写真をのせたビラを撒いたが、やはり無視される。, 小野田らの島民襲撃、略奪が続くため、内政不安定で手が回らなかったフィリピン政府も「残留兵討伐隊」を送ることを表明するが、最初の救出隊帰国後も現地に残って3人の救出に尽力していた辻豊朝日新聞記者が大統領に討伐隊派遣の延期を直訴し「私がルバング島に渡って投降勧告にあたりたい」と申し入れた。辻記者はフィリピン軍の協力で島に入って懸命に呼びかけた。知っている限りの日本の歌を歌い、上半身裸になって「この白い肌を見てくれ。日本から来た日本人だ」と叫んだが、小野田はそのすぐそばにいて見ていたが無視。, 1954年5月7日 共産系反政府ゲリラ「フク団」討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊を自分たちの討伐隊と勘違いした小野田グループ3人が部隊に発砲。, 島田伍長の遺体確認のために厚生省(当時)の係官と小野田少尉の長兄・敏郎(としお)、小塚一等兵の弟・福治が島に入り、呼びかけ、ビラ撒きを行ったが、小野田・小塚の二人は出てこなかった。, 1959年 小野田・小塚による島民殺傷や略奪行為が続くため、フィリピン政府が大規模な討伐隊を派遣することを決定。それを受けて、日本では家族や友人らが救出活動を呼びかけ、国会でも全議員一致で救出を決議。同年5月に小野田敏郎(寛郎の長兄・医師)、小塚福治(実弟)らを含む救出隊が島内で徹底的な捜索を開始。しかし、小野田・小塚の二人はついに現れず、11月には日本政府、フィリピン政府が共同で「小野田元少尉、小塚元一等兵はすでに死亡したものと認め、今後は日本兵が現れたという情報があっても一切取り上げない」と表明。, この事件で小野田の生存が確認され、厚生省はただちに小野田の兄弟、同期生ら大勢を引き連れた捜索隊を派遣。捜索は翌1973年4月まで三回にわたって行われたが、小野田は最後まで姿を現さなかった。このとき、捜索隊の携帯品をのせた飛行機が転覆炎上し、装備品すべてを消失するという事故も起きた。このときの捜索総費用は1億円(当時)にのぼった。, 1974年2月 鈴木紀夫という青年冒険家?が単身ルバング島に渡り、小野田と対面。写真も撮り、「上司である谷口少佐の命令があれば山を出る」と約束させる。その写真は2月28日に日本のテレビで放映された。, 1974年3月9日 約束の場所に小野田が姿を現し、谷口少佐からの命令を受け、投降。. B, @aoitori2011 ’nŒ³ŠC“ìŽs‚Å‚Í‚»‚ÌŽ–‚͏펯‚É‚È‚Á‚Ä‚¢‚é, ‚»‚à‚»‚à‚m‚g‚j‚ɗǐS‚È‚Ç‚ ‚é‚Í‚¸‚à‚È‚¢‚µ‚½‚¾‚Ì”q‹àŽå‹`ŽÒ‚̏W‡‘Ì‚È‚ñŽÖ‚ȁ[B, £ã‚ց@@@@@ Oの帰還〜』)というコンセプトアルバムを発表している[23]。日本ではこのアルバムの収録曲としては、プロレスラーの前田日明の代表的な入場テーマソングとして使用され、前田のフィニッシュ・ホールドの語源ともなった「キャプチュード」が特に名高い[24]。同曲は小野田をモチーフとした敗残兵の「ヌード」が、救助隊との間で激しい争いの果てに「保護(Captured)」されるシーンを描写した楽曲でもある[25]。, 赤津勇一(あかつ ゆういち Yuichi Akatsu 生没年不詳)はルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に途中で小野田グループと合流した日本兵。東京都出身。諸説では1949年9月にグループを離脱し1950年6月にアメリカ軍に投降した、1950年の戦闘での負傷でグループと離れ意識不明のところを6月にアメリカ軍に発見されたとされる。最終階級は一等兵。翌1951年帰国し、小野田、島田、小塚の生存を政府に伝えたと言われる。, 生没年等詳しい事は不明であるが、若一光司の著作によれば、結婚して日本で生活しているとの記述があり、1980年代中盤時点では存命であった[26]。, 島田庄一(しまだ しょういち Shoichi Shimada 1913年 - 1954年5月7日)はルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に小野田グループにいた日本兵。埼玉県小川町出身。1954年5月7日に起きたフィリピン警察隊との銃撃戦で眉間を撃ち抜かれ死亡。享年41。最終階級は伍長。, 2005年8月13日にフジテレビ系列で放送されたドラマ『実録・小野田少尉 遅すぎた帰還』では、柳葉敏郎(友情出演)が彼の役を演じた。, 小塚金七(こづか きんしち Kinshichi Kozuka 1921年 - 1972年10月19日)はルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に小野田グループにいた日本兵。1921年、東京都八王子市に生まれる。1936年に八王子尋常高等小学校(現・八王子市立第七小学校)卒業後、農業に従事。1939年に八王子工機青年学校に入学し、その後応召。1944年6月11日近衛歩兵第1連隊に入隊し、同年7月にフィリピンに派兵され、独立歩兵第359大隊に編入。終戦した事を知らずに戦闘を続け、日本政府による捜査も発見できずに、1947年と1959年に死亡通知が出された。, 1972年10月19日に起きたフィリピン警察隊との銃撃戦で肩を撃たれて38式歩兵銃を落とし、さらに胸を撃たれて倒れる。[4][27]小野田は小塚の銃で5発、自身が持つ九九式短小銃で4発撃ち警察隊の攻撃を抑え、倒れた小塚を揺さぶるもその時には白目を向いて口から血を流しており既に死亡していた。享年51。最終階級は上等兵。小塚の死に対し小野田は「復讐心が高まった。目の前で30年もの戦友を殺された時の口惜しさなんてものはない」と後年怒りを込めて述べている。小塚の三八式歩兵銃は、小野田が日本帰還後に小塚の両親に渡したと言われている。また、手元には1959年に厚生省が現地で撒いた投降勧告ビラが遺されてあったと言われる。同年11月4日に、八王子市民葬が執り行われた。, 母親には手紙を渡していたと言われ、息子の死に際して、母親は「人生わずか50年、その半数を異国の島ルバングの山谷に人も入らぬジャングルに27年、祖国の為と御奉公の甲斐むなしく[昭和]47年10月19日、命と共に消へ失せる悲しき最後、あまりにも哀われです。」と手記を残した。, 後日、小塚が所有していた銃弾42発を警察庁が入手。発射実験を行ったところ、弾薬庫においても寿命10年程度の弾丸が、30年以上たってもなお半数以上が発射できたという[28]。, 2005年8月13日にフジテレビ系列で放送されたドラマ『実録・小野田少尉 遅すぎた帰還』では、西島秀俊が彼の役を演じた。また彼の事は、若一光司の著書『最後の戦死者 陸軍一等兵・小塚金七』(河出書房新社、1986年7月)に詳しく書かれている。, 小野田は、自らの抑留経験を基に、健全な人間形成と自然・社会との共存を図るために、これからを担う子供たちに自然教育の必要性を重んじ、1984年からキャンプ生活を通しての教育活動「小野田自然塾」を開講し、全国各地で子供たちに対する自然教育の推進を行った。1989年、私財を投じて、自然塾を主宰する「財団法人小野田自然塾」を設立した。, 「お気持ちは分かるが 老父の参加見合せ」『朝日新聞』昭和48年(1973年)2月8日朝刊、13版、3面, 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、126頁、231頁。, 「たしかな命中率・威力 よく30年間もみがいて」『朝日新聞』昭和48年(1973年)1月19日朝刊、13版、3面, https://archive.is/20120712212737/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0629&f=national_0629_018.shtml, “「日本女性の会」会長に小野田夫人=日本会議の女性団体=開拓30年の経験に期待=尾西兵庫会長=「しっかりした人」”, https://archive.is/20130424103032/http://www.nikkeyshimbun.com.br/061205-71colonia.html, https://web.archive.org/web/20140201164614/http://mainichi.jp/select/news/20140117k0000e040208000c.html, “Hiroo Onoda, Soldier Who Hid in Jungle for Decades, Dies at 91”, https://www.nytimes.com/2014/01/18/world/asia/hiroo-onoda-imperial-japanese-army-officer-dies-at-91.html, https://archive.is/20140119023906/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140119-00000068-san-soci, https://archive.is/20130430203809/http://www.47news.jp/CN/200412/CN2004121701003972.html, ほぼ日刊イトイ新聞 小野田寛郎×糸井重里 どんな子供に育ってほしいかを、ざっくばらんに。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=小野田寛郎&oldid=79658942, 1954年5月、1958年、1959年5 - 12月 - 赤津元一等兵等投降者の証書に基き援護局職員および小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友によるルバング島の残留日本兵捜索が行われるが、未発見に終わる。, 終戦60年企画「おじいちゃん本当のこと聞かせて」石原さとみと小野田寛郎の戦争と平和を巡る旅(2005年12月28日、, 『No Surrender: My Thirty-Year War』(Farrar Straus & Giroux,, 小野田凡二『回想のルバング―寛郎を待った三十年』 (浪曼, 1974年)ASIN B000J9GLNC. šˆ¢C—…ô > ­Ž¡E‘I‹“E‚m‚g‚j210ŒfŽ¦”@ŽŸ‚Ö @‘O‚Ö, http://www.asyura2.com/16/senkyo210/msg/226.html, http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/dafc3792068d2081abe1d0bb1dd3028b, http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/c5b34151770641dc1dcf07ba1f1bd61f?utm_source=admin_page&utm_medium=realtime&utm_campaign=realtime, http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/338b9e0e007661b9018b77e82d7b9e2f, http://www.asyura2.com/13/warb12/msg/392.html, http://chuka123.hatenablog.com/entry/2014/02/01/043207, http://sanjyoumaki.blog136.fc2.com/blog-entry-959.html, http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201607250000/. Mato Grossa do sul.)にて、約1200haの牧場を開拓。7年間は無収入だったが10年目には軌道にのせ1800頭の肉牛を飼育した。1979年5月に発足したバルゼア・アレグレ日伯体育文化協会初代会長に就任。2004年ブラジル空軍より民間最高勲章メリット・サントス・ドモントを授与される。同年マット・グロッソ州名誉州民に選ばれる。), その後、「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」として『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰 (1984年7月) [要出典]。, 愛媛県議会議員・森高康行を始めとして政界とも交流をもつ。妻・町枝は2006年、安西愛子の後任として日本会議の女性組織・日本女性の会の会長に就任した[12]。, 保守系の活動家でもあり、日本を守る国民会議、日本会議代表委員等を歴任。社団法人日本緑十字社理事にも就任した。慰安婦問題の真偽に対しては日本の責任を否定する立場であり、2007年7月13日に米国大使館に手渡された米下院121号決議全面撤回を求めるチャンネル桜主導の抗議書には夫婦そろって賛同している[13]。また、田母神論文問題で更迭された田母神俊雄元航空幕僚長を支持する「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」には、発起人として妻と共に名を連ねている。2009年5月15日には、「小野田寛郎の日本への遺言」と題した講演を2時間に渡って行った[14]。その後も講演活動を続けていたが、2014年1月16日、肺炎のため東京都中央区の病院で死去した。91歳没[15]。, 戦時中に自身が体験した人間が持つ潜在的な能力にも触れている。本当に命を賭けなければいけないと必死になった瞬間、頭が数倍の大きさに膨らむ感覚と同時に悪寒に襲われ身震いし、直後、頭が元の大きさに戻ったと感じると、あたりが急に明るく鮮明に見えるようになったという。「夕闇が迫っているのに、まるで昼間のような明るさになりました。そして、遠くに見える木の葉の表面に浮かぶ1つ1つの脈まではっきり認識することができました。そうなると、はるか先にいる敵兵の動きも手に取るように分かります。それこそ、相手が射撃をする直前にサッと身をかわして銃弾を避けることさえできると思いました。」命を賭ける場面が、命を賭けなくても大丈夫だという自信に変わった瞬間だったという[16]。, また『月刊秘伝』2004年7月号でのインタビューでは「直進する物は物理的に見えるんですよ。(中略)真っ直ぐ自分のほうに伸びてくるんだから見えます。(中略)撃たれたときは、火を噴いている銃口から見えた。(中略)相手の突きを避けられるのだから避けられますよ。」と語っている。自身の著書である『小野田寛郎―わがルバング島の30年戦争』でも、銃弾は飛んでくるとき蒼白い閃光を放つから、それを避ければいいと語っている(合気道の開祖である植芝盛平も、満州で馬賊の襲撃を受けた際に同様の体験をしたと語っている)。, 小野田の手記『わがルバング島の30年戦争』(1974年)[注 2]のゴーストライターであった作家の津田信は、『幻想の英雄―小野田少尉との三ヵ月』(1977年)において、小野田を強く批判している。小野田が島民を30人以上殺害したと証言していたこと、その中には正当化出来ない殺人があったと思われることなどを述べ、小野田は戦争の終結を承知しており残置任務など存在せず、1974年に至るまで密林を出なかったのは「片意地な性格」に加え「島民の復讐」をおそれたことが原因であると主張している[17]。, サーチナによると2009年に小野田の話が中華人民共和国のウェブサイト『鳳凰網』歴史総合ページで紹介されると、「真の軍人だ」「この兵士の精神を全世界が学ぶべきだ」「大和民族は恐るべき民族。同時に尊敬すべき民族」などの賞賛する書き込みがあり、肯定的に評価する投稿の方が若干多かった。[1][18]。, 2014年の小野田死去に際し、ニューヨーク・タイムズは、「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」「彼の孤独な苦境は、世界の多くの人々にとって意味のないものだったかもしれないが、日本人には義務と忍耐(の尊さ)について知らしめた」とし、小野田が1974年3月に、当時のフィリピンのマルコス大統領に、投降の印として軍刀を手渡した時の光景を、「多くの者にとっては格式のある、古いサムライのようだった」と形容し論評した[19][20]。, また、ワシントン・ポストも、「彼は戦争が引き起こした破壊的状況から、経済大国へと移行する国家にとって骨董のような存在になっていた忍耐、恭順、犠牲といった戦前の価値を体現した人物だった」とし、多くの軍人は「処刑への恐怖」から潜伏生活を続けたが、小野田は任務に忠実であり続けたがゆえに「(多くの人々の)心を揺さぶった」と論評した[20]。, イギリスのプログレッシブ・ロックバンド、キャメルが1981年に"Nude"(邦題:『ヌードの物語 〜Mr.

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